鬼になろうとするのではなく

日々

先日は、福島県須賀川市の藤沼湖で演奏をしてきました。

2011年3月11日、東日本大震災によって福島県須賀川市にある藤沼湖の堤防が決壊——
死者・行方不明者8名、流出家屋11戸、床上・床下浸水55戸。

恥ずかしながら、当時学生だった私はニュースにあまり関心がなく、この公演をきっかけに藤沼湖のことを知りました。

2026年10月11日、13時40分。

「作家たちの3.11 鬼が来た ~鬼魂一打2026~」

開演20分前。

当地で被災された方々の慰霊と鎮魂のため、褌姿で藤沼湖畔を一周する巡礼が始まります。

「いってらっしゃい」

あたたかい拍手に送り出していただきました。

この一周で鬼にならなければ……。

慰霊、鎮魂、巡礼。

さまざまな思いが重なり、プレッシャーを感じていました。

しかし、全身で風を感じながら走っていると、いつの間にか、そうした力みや傲りが消えていました。

美しい木々に、澄んだ空。
優しい小鳥のさえずり。
肌を包み込むような、あたたかい日差し。
キラキラと輝く湖。

道中には「行雲流水」と彫られた石碑もありました。

決して振り返らずに先頭を走る大太鼓打ちの背中を追いかけ、湖畔を走り切りました。

昨年、深大寺の特別ご開帳に足を運んだ際、元三大師・良源にまつわる角大師の伝承を知りました。

宮田登さんの『民俗学への招待』には、鬼は単に恐ろしい存在ではなく、精霊の一種であるといった趣旨のことが書かれています。人間には受け止めきれないものがあるとき、異形の鬼が現れる。

そんな鬼の捉え方から、角大師のエピソードを思い出しました。

平安時代、都で疫病が流行した際、元三大師こと良源は、人々を救いたい一心で鏡の前に座り、瞑想したといいます。すると、鏡に映る自身の姿が鬼へと変わりました。

弟子たちはみな恐れましたが、その姿を描き写していた者がいました。

それが、角大師のお姿として伝わっています。

我々太鼓打ちは、一心に目の前の太鼓を打つ。

鬼になろうとするのではなく、

何かを届けたいと思う。

お客様でも、神様、仏様、ご先祖様、家族、恋人、友人、仲間。

誰に向けたものでもいい。

何かを願い、何かを届けたいと願う。

そんな祈りとなった純粋な一音を打つ姿が、一瞬でも鬼に見えていたのなら、それでよかったのだと思います。

際限なく広がる秋空の下、大太鼓の音と雲が溶け合っていくようでした。

誰かの心の琴線に太鼓の音が触れ、今この瞬間を共有できている。

そのこと自体が、尊いことなのだと気づかされました。

「災害ユートピア」という言葉があります。

被災地を訪れるたび、東京や神奈川で暮らしているときとはまた違う、人と人との強いつながりを感じることがあります。

太鼓打ちとして被災地の方々と関わる機会がなければ、私自身も、どこか他人事として捉えたまま、楽観視していたかもしれません。

日常に戻れば、やがて忘れてしまうこともあると思います。

だからこそ、忘れてしまったときに、少しでも思い出せるように。

今回感じたことを、記事に残しておきます。

ご一読いただき、ありがとうございました。

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